ACe建設業界
2011年8月号 【ACe建設業界】
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目次
ACe2011年8月号>フォトエッセイ
 

[フォトエッセイ] 続・昭和の刻印

別業の里
【別荘地開発】

 
 
 
[文]
窪田 陽一(Kubota Yoichi) 埼玉大学大学院理工学研究科・教授
[写真]
尾花 基(Obana Motoi)


大室山から眺めた伊豆高原。山中の林間から大海原が展望できる立地が人気を博した。

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 今年もまた暑い夏が来た。いや、毎年暑さが厳しくなっていると実感する。地球温暖化のなせる技のようだが、昔から暑さ凌ぎは知恵を絞らされる難儀である。「あついぞ!」と居直りを決め込む町もあるが、冷房装置がないながらも人々が生き抜いてきた時代はそれ程遠い昔のことではない。半世紀程前の昭和30年代半ばまでは、高所得者の家でも冷房が入る部屋は一室あるかないかだったのだ。

 一時凌ぎではあっても人は涼を求める。冷房がなかった頃、酷暑の日には氷塊をリヤカーに乗せて売り歩く行商の氷屋から一抱えもある氷柱を買い求め、部屋の片隅に置いた器に立てて団扇で扇ぎ涼を得ることがあった。亜熱帯や熱帯では、気温が高くなる日盛りには日陰に入って休息や午睡を取り、太陽が傾き始めた頃に活動を再開する国々が今もある。

 別の土地に一時的に移り住む人々もいる。地中海沿岸等世界各地のリゾートには避暑や避寒のため長期滞在に訪れる人々の姿が今も多く見られる。フランスのアルカシオンはパリの、イギリスのバースはロンドンの、其々に豊かな市民が社交界を形成する避寒地として整備され、質の高い生活を支える地域経済が展開する都市として成熟した。開国後の日本では、外国人達が静養を兼ねつつ同胞と交流を深める場として軽井沢の林間や野尻湖畔、松島を望む高山に避暑地を形成した。

澄んだ冷涼な空気が漲(みなぎ)る清里高原の牧歌的風景。米人牧師ポール・ラッシュが八ヶ岳南麓に昭和13年創設した宿泊施設の清泉寮を範例に別荘や保養施設が建つようになる。

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  古にも、風光明媚な里に皇族や貴族が別業と呼ぶ別邸を構えた。京の都では嵯峨、白河、鳥羽、宇治等が好まれ、桂や修学院等、天皇や上皇の離宮も各所に造営された。武家が倣った時代もある。明治維新で東京に遷都した後も皇室の避暑や避寒、静養のために離宮や御用邸が設けられた。近辺に政財界の要人や資産家達が別宅を構えたのも道理で、鄙の里は瞬く間に別荘地へと変貌した。

 御雇いドイツ人医師ベルツが紹介した海水浴の適地として、陸軍軍医総監の松本順の指導により明治18年照ヶ﨑海岸に海水浴場が開かれた大磯は、山縣有朋等要人の別荘が建ち並ぶようになり、第二次大戦後は吉田茂が晩年の住まいを構えた。東海道線が開通した明治22年前後から相模湾に面する湘南、駿河湾の沿岸は温暖な気候と富士を仰ぎ見る風光故に保養地として脚光を浴び、昭和初期にかけて夏は海水浴、冬は避寒の地として富裕層の社交場となった。鎌倉や葉山等は御用邸を元に皇族や華族、政府高官の別荘が建てられ、芸術家や文化人も加わり常住の里になっていった。

 山中の温泉湯治場での転地療養の長い歴史を持つ日本では、山懐に抱かれた理想郷への憧憬を重ねたかのように林間や湖畔にも目が向けられ、鉄道や道路の開通と相前後して別荘地開発の波が押し寄せた。

浅間山麓の樹林を拓いて誕生した軽井沢。庶民が憧れる別荘地の代名詞。

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  昭和は保養地の大衆化、別業の里の商品化の時代である。懐に余裕が生まれた所得層にも手が届く新たな別荘地が昭和後期に供給され始める。高度経済成長による所得向上と余暇社会の到来が市場を形成した。日常を離れた環境体験を目論んだ臨海学校や林間学校、企業や公的機関の保養施設も流れに加わった。列島改造の荒波が全国を覆った頃から、都市近郊の戸建住宅地と大方異なる所がない分譲別荘地が出現し始め、賛否が問われた。

 日々暮らす家屋の他に不動産を持つと確かに物要りである。維持の負担を抱えた夢の形は今変容の時期を迎えている。避暑地や避寒地の存在理由は、海や山の自然と一体の環境の中で人生の一時期を過ごす意義と価値に繋がる。別業の里に憩う人々は、冷房も暖房も部屋単位で普及した都市では得られない世界を其々に求めている。その実像を見据え、持続可能な姿を描き直す知恵を掘り起こしたい。

 
   
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