ACe建設業界
2011年7月号 【ACe建設業界】
ACe建設業界
特集 人づくり
 第2回 「繋」
最大級の津波を
 想定した減災対策へ
平成23年度
 意見交換会
遠近眼鏡
天地大徳
世界で活躍する
 日本の建設企業
現場発見
BCS賞受賞作品探訪記
建設の碑
フォトエッセイ
目次
ACe2011年7月号>フォトエッセイ
 

[フォトエッセイ] 続・昭和の刻印

渚の行方
【人工海岸】

 
 
 
[文]
窪田 陽一(Kubota Yoichi) 埼玉大学大学院理工学研究科・教授
[写真]
尾花 基(Obana Motoi)


大蔵海岸。源氏物語の舞台にもなった明石の浜の面影や何処。

クリックで拡大画像を表示

 子供の頃、静岡に隠居していた祖父母の許に逗留し、海や山へ遊びに行くことが毎夏の我が家の恒例行事だった。海水浴には三保や袖師が定番だったが、磯遊びに興じた興津には度々訪れた処があった。東海道から山の斜面を登って直ぐの所にある古刹の清見寺がその一つ。海と山が間近に対話する、蝉時雨に覆われた境内からの眺めが今も瞼に浮かぶ。そして明治の元勲西園寺公望の居宅、坐漁荘である。海を手前に富士を仰ぎ見る駿河湾沿いは、岩磯と砂浜が交互に綾なす、日本の海岸風景の範例と言える海辺だった。興津は東に由比が浜、西に袖師の浜の渚が大らかな弧を描く海岸線に挟まれた岩磯で、打ち寄せる波飛沫が見える間合いで坐漁荘は建っていた。海に囲まれた日本ならではの立地の坐漁荘は、大正の数寄屋建築を代表する建物である。古希を迎えた元老西園寺が老後の住処として風光明媚な清見潟に臨む地に大正八(1919)年に建てたもので、渡辺千冬子爵の命名による。昭和15(1940)年に92歳で世を去るまで西園寺は当地に起居したが、魚釣り三昧の寛いだ余生どころか政界要人の往来が重く、西園寺詣で、興津詣でという言葉も生まれた程だった。その館も高度経済成長の波を受けて昭和45(1970)年に明治村へ移築され、静清バイパスや護岸工事により磯そのものが姿を消した。坐漁荘は現地に復元されたが、潮騒は往来する車の音に掻き消されている。

東名高速道路由比PAの下にかつての海辺は眠る。

クリックで拡大画像を表示

 磯辺に居を構えるという選択は、大海原と日夜向き合い対話する心構えを体現している。時に荒れ狂う海の気紛れを承知で風土の中に座を占める心境は、自然を有りの儘に受け入れ共生する知恵と覚悟を懐に秘めた地金の重みがある。遡れば、前近代の社会が風土の中に生み出した風景も自然の掟との鬩ぎ合いの果実だった。風波に見舞われる海辺では海と陸を仕切る結界の造成に苦心したが、海岸に植えられた黒松の林は、住吉模様とも呼ばれる白砂青松の形象として定着し、江戸期には磯や渚で遊びに興じる人々の背景を彩った。

 時は下り、明治12(1879)年、御雇外国人医師エルヴィン・フォン・ベルツが片瀬東浜を医療目的の海水浴場適地としたことを契機に、湘南の浜辺が脚光を浴びるようになる。その後、克服すべき相手として自然と対峙する近代思想が色濃く社会を染めていく時勢の下、日清戦争勃発の明治27(1894)年に志賀重昂が世に問うた『日本風景論』以降、日本固有の風景に改めて眼差しが向けられ、海辺の風趣を追い求める識者が相次ぐ。興津の坐漁荘はその流れを汲むと言えよう。しかし昭和日本の海辺の近代化は欧米とは様相を異にした。

須磨の海辺の魚釣り桟橋。浜辺も磯もない、鉄の海辺。

クリックで拡大画像を表示

 感性の歴史学を紐解いたフランスの歴史学者アラン・コルバンは大著『浜辺の誕生』で、恐怖と嫌悪の対象だった浜辺を、近代社会が海辺のリゾートに変容させた過程を描き出している。浜辺は、海と空と陸の狭間で自然の諸力と人間の欲望が交錯する場となり、近代を謳歌する社交と愉楽の空間を形成した。イギリスのブライトン、フランスのビアリッツやアルカシォン、地中海のカンヌ、オランダのスヘヴェニンゲン等々、各地を彩る艶やかな海辺は国を越えて人々を惹きつけている。

 一方、万策を講じて海辺の土地を獲得しようとする趨勢が卓越した戦後昭和に、白砂青松の景観は激変した。天然の渚や磯は波浪や海岸浸食への対策のため硬派な堤防や消波ブロックに置換された。国民が海浜を自然のまま利用し享受する権利として入浜権を主張する人々も現れる程、海辺の間合いは遠退いたのだった。

 日本の海岸風景が成熟する素地は確かにあった。その機会が再び訪れる日が待ち遠しい。
 
   
前月へ  
ページTOPへ戻る