ACe建設業界

ACe 建設業界【2019年5月号】

碑文

 【津田永忠 岡南大橋東詰北側の銅像の銘板の全文】
 津田永忠
 津田永忠は、岡山藩主池田光政公の信任を得、岡山藩学校、
 閑谷学校等の造設に尽力し、嫡子綱政公の命を受け、後楽園の
 造営、百間川の造築等を行った。また、元禄五年(一六九二年)
 より沖新田干拓工事に着手した。
  この工事は難工事で、堤防は何度築いても波にさらわれて、
 工事は進行しなかった。主君を説得し、藩臣の反対を押し切り
 莫大な費用をかけて工事に着手しただけに、次第と焦燥の色が
 濃くなっていった。この永忠の苦衷を察して、みずから人柱に
 なることを申し出たのが下女の於喜多(おきた)であった。こ
 の於喜多が人柱に立ってから堤防は一度も破壊せず、工事は無
 事に完成したと伝えられている。
  この恩人於喜多を祭ったのが、鎮守の神として元禄七年(一
 六九四年)勧請した沖田神社であり、境内には、この沖新田開
 墾の功労者である津田永忠の功績をたたえる開拓記念碑および
 胸像がある。

 児島湖 昭和天皇歌碑
 
【表】
   御製
 海原をせきし堤に
  たちて見れば
 志ほならぬうみに
  かはりつつあ里
      甘露寺受長謹書

【裏】
 天皇皇后両陛下には、昭和三
 十一年四月十日に工事中のこの
 堤防を御視察遊ばされ、この
 御製を賜りました。この慶び
 を永く後世に傳えようとして
 ここに碑を建てました。
 昭和三十七年三月農林省

【表】
 児島湖について
 昭和37年3月 農林省
 
 この湖は、児島湾を締切って淡水とし、沿岸の水田5,140haの補給水を貯留する目的で
 昭和25年6月に着手し、工費22億3,000万円(國庫負担20億5,650万円、県負担6,940万円、
 土地改良区負担1億410万円)を投じて、昭和37年3月に竣工した世界第二の海面締切り
 による淡水湖で、これにより米麦6万4,000石の増産が期待できます。なおこの堤防は、岡
 山市と児島半島との交通、観光にも非常に役立ちます。
 
 貯水池                樋門
 貯水全量 26,072,000㎥         構造 基礎圧気潜函、上部鉄筋コンクリート
 満水面積 1,088ha            径間              12.00m
 流域面積 52,000ha           門数 御幸樋門6門 弁天樋門6門
 締切堤防               閘門
 形式 石積囲い土(注)堤        構造 基礎圧気潜函、上部鉄筋コンクリート
 標高 湖内側+4.50m 湖外側+5.50m   閘室幅             8.00m
 延長           1,558.00m   閘室長             29.00m
 幅員 上巾30.00m下巾90.00~160.00m   通行最大船舶          120屯
 高さ         6.30~12.50m   通行方式  パナマ運河式

【裏】

  この大事業の完成にあたり、九名の悼ましい殉職者(殉職之碑参照)のことならび
 に漁業者等の被害者その他多数の関係者の御協力御労苦を偲ぶとともに、将来この
 事業の効果がますます発揚されることを祈念いたします。
  なおこの事業の遂行に関与されたおもな人々は、次のとおりであります。

 農林大臣 森幸太郎 同 河野一郎  衆議院議員 星島二郎 参議院議員 重政庸徳
 (初代の岡山農地事務局長) 岡山県知事 西岡廣吉 同 三木行治 児島湾土地改良区
 理事長 浅越和夫 岡山農地事務局長 山本廉 同 武内繁 同 和栗博 同 奥田孝 同 川
 戸孟紀 児島湾沿岸農業水利事業所長 得能繁男 同 大谷信太郎 同 村山屯 同 龍吉
 治 同 水町邦彦
 白石基礎工事株式会社 中国土木株式会社 佐伯建設工業株式会社 逢沢組
 新三菱重工業株式会社 株式会社大本組 株式会社水野組 株式会社荒木組

 御製の碑
 撰文(裏面) 川戸孟紀        揮毫(裏面) 内田鶴雲
 彫刻    三宅善之助        造園     梅村清七郎
 碑石    御津郡一宮町       台石     西大寺市犬島産
       長野産