ACe建設業界

ACe 建設業界【2019年4月号】

碑文

 【銅板の碑文】
 岡山藩郡代津田永忠居宅跡
  津田永忠は、寛永十七年(一六四〇)岡山市弓之町に生ま
 れ、岡山藩主池田光政、綱政の二代に仕えた。
  和意谷の池田家墓所をはじめとし、岡山藩校や閑谷学校、
 後楽園、曹源寺、吉備津彦神社、倉田、辛島、沖等、合計二千五
 百町歩にも及ぶ大新田干拓、田原用水、百間川、倉安川の開
 鑿、さらには牛窓一文字波止や大多府波止等、岡山藩政史に
 燦然と輝く数々の土木建築事業に中心的にかかわり、不朽の
 功績を残した。
  永忠はこれらの事業をすすめるにあたって、堺の石工河内
 屋治兵衛等、卓越した技能をもつ人材を重用し、瞠目に値す
 る成果を挙げる一方、中国の社倉米という貯蓄備蓄制度をい
 ちはやく取り入れ、農民救済を図るとともに、事業資金にあ
 てた。また元禄年間には、破綻に瀕した藩財政の大改革を行
 い、みごとに財政再建を果たした。
  本石碑の立つ地は、永忠が盛んに活躍した元禄四年(一六
 九一)から、隠居して和気閑谷に退出する宝永元年(一七〇
 四)までの居宅跡地である。永忠はその後、宝永四年(一七〇
 七)中山下の丹下宅にて没した。和気郡奴久谷に墓所がある
 が、ゆかりの地を中心に今なおその遺徳を偲ぶ人は多い。
 後楽園築庭三百年を二年後に控え、有志が発意、永忠の不
 滅の功績を顕彰するため一般より浄財を集め、永忠居宅跡を
 表示する碑をここに建立した。碑に用いた石材は、百間川河
 口樋門の石柱として使用されていたもので、昭和四十三年
 (一九六八)水門改修完成時に取り除けられていたのを、永忠
 ゆかりの石材として譲り受け、原形のまま利用した。
 「知行合一」の四文字は、永忠の功績を賛える最もふさわし
 い言葉として刻んだ。谷口澄夫先生の筆によるものである。
 一九九八年十月
         津田永忠顕彰会、建設省、岡山県
         岡山市、岡山経済同友会

【石材に掘られた文字】
 知行合一