ACe建設業界

ACe 建設業界【2015年9月号】

【碑文】 金毘羅講燈籠と瀬山登の銅像 

新堀湛甫跡

新堀湛甫跡

瀬山登の銅像

瀬山登の銅像

齋瀬山登の銅像と太助燈籠

瀬山登の銅像と太助燈籠

金毘羅講燈籠(太助燈籠)の碑文


  金毘羅講燈籠
  丸亀は金毘羅参詣客の上陸地で、門
 前みなととして栄えてきた。金毘羅講
 寄進のこの青銅燈籠は、天保九年
 (一八三八)の製作で、髙さ五・二八メート
 ル、蓮華をかたどり八角形である。
  ここの船溜り(新堀湛甫)を築造す
 るとき、当地の金毘羅宿の主人、柏屋
 団次らが発起で江戸に行き、江戸およ
 び近国で千人講を作り、江戸本所相生
 町の富商塩原太助の奉納金八十両をは
 じめ、千三百五十七人が出し合った金
 でできた信仰と、航路標識をかねたも
 ので、江戸講中の代表八十両の最髙額
 寄附者の名をとどめて、一名「太助燈籠」
 とも呼んでいる。
  天保の昔、対岸に二基、福島湛甫に
 二基建てられたが、戦時中の金属回収
 で姿を消し、この一基だけが残ってい
 る。金毘羅街道の「一の燈籠」である。
          丸亀市教育委員会

瀬山登の銅像 碑文


 瀬山登、名は重嘉、通称四郎兵衛、棠川(とうせん)
 と号し、江戸時代の天明四年(一七八四)京極藩士
 の家に生まれる。小姓から大目付、勘定奉行、
 物頭となり江戸屋敷の留守居役となる。和漢
 の学に通じ、写生画を能くし、江戸在府中に
 金毘羅千人講を作って参詣客の誘致をはかり、
 その受け入れのため、港拡張の必要から新堀湛甫
 を築造し、また金毘羅銅灯籠(現太助灯籠)を
 建てたが、その多額にのぼる費用調達にあたり
 千人講のほか、江戸老中や豪商を動かし、藩の
 財政に影響を与えることなく大いに政治的手腕
 を発揮して完成させた。更に、江戸の隣り屋敷
 九州中津藩から団扇作りの技術を家中の者に
 習得させて国元に拡げ、金毘羅詣りの土産もの
 として販売させ、今日の全国一を誇る団扇産業
 を創始するなどして丸亀繁栄の基礎を築いた。
 嘉永六年(一八五三)六十九歳で没したと伝えられ
 墓所は南条町の宗泉寺にあり、市制施行九十
 周年に際し顕彰のためこの像を建立した。
  平成二年三月吉日
     瀬山登顕彰事業実行委員会