ACe建設業界
2011年5月号 【ACe建設業界 創刊号】
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[フォトエッセイ] 続・昭和の刻印

新陳代謝の記憶
【都市改造】

 
 
 
[文]
窪田 陽一(Kubota Yoichi) 埼玉大学大学院理工学研究科・教授
[写真]
尾花 基(Obana Motoi)


大阪城の背後に広がる大阪ビジネスパーク。昭和後期を代表する都市再開発の姿は企業戦士の牙城を思わせる。

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 本稿を執筆中だった3月11日の午後、東日本を巨大地震そして大津波が襲い、幾世代にも亘り営々と築いてきた街や村が未曽有の大災害を被った。東北地方太平洋沖地震による震災は、筆舌に尽くせぬ労苦を人々に齎し、その奥行きは測り知れない程深い。尊い命を失われた方々に哀悼の意を表すると共に、平穏な時の流れを断たれた被災者の方々にお見舞いを申し上げ、再起を目指して歩まれるよう支援を惜しまないことをお伝えしたい。

  我が国は幾度となく災厄を被りながらも強かに立ち上がり、新たな扉を開いてきた歴史を持つ。太平洋戦争という人災による荒廃から抜け出した高度経済成長酣の昭和34年、メタボリズムを標榜する建築家集団が現れ、新陳代謝という生物の機構に擬えて有機的な成長を基調とする都市論を提唱したことがある。その3年前に中野好夫が『文藝春秋』に発表した論説の表題「もはや『戦後』ではない」が、経済白書の副題に引用され流行語にもなって間もない頃である。昭和39年に開催された東京オリンピックの記録映画は、東京駅周辺の建物を鉄球で解体する場面で始まる。旧市街を取り壊し新しい建造物に入れ替えるスクラップ・アンド・ビルド、即ち壊して建てるという行為こそ都市の新陳代謝の実像に他ならない。災害ではなく人為による都市の改造が社会の活力を生んでいた当時、脱皮し変容する景観に大勢が目を奪われた。戦争に突き進んだ昭和初頭までの近代化の歴史も忘却するかの如き潮流が押し寄せた最中の昭和41年、高さが抑えられていた丸の内のスカイラインを突き抜ける高層建築に対する異議を契機に皇居前美観論争が起きた。しかし過去との訣別を自覚し新時代の可能性に賭ける熱気が上回り、東洋の奇跡を体現する都市景観へと昭和は変貌した。

 古い、あるいは損傷した都市の一隅を新たな姿に転生させようとする意識は、古代から世界各地で幾度となく台頭している。その多くは既存の環境を白紙に戻し、時代の趨勢に触発された想念を投影するものだった。その効用を信じた社会は改造の道を突き進んだが、異なる岐路を選んだ都市も少なくはない。

都市デザインを掲げ続けた市政の集大成とも言える横浜みなとみらい21地区。フランスの批評家ジャン・ボードリャール流に言えば、時間消費の時代の景観。

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 第二次世界大戦後、西欧の主要都市で戦災を受けた地区を中心に、同盟国のアメリカの支援を通じて、それまでのバロック的都市計画の延長線上を思い描いた近代化とは一線を画する、機能主義に基づく復興の動きが現れた。だが、戦災を受けたとは言え何世紀も築いてきた都市の姿が跡形もなく抹消されることに対する慄きにも似た感情が市民の間に横溢した。過去から継承された場所を永遠に失うことは、巨大な空洞を抱えるが如き精神的苦痛を生むと危惧されたのである。カナダの現象学的地理学者エドワード・レルフは、阪神・淡路大震災後に来日した際の講演の中でこの環境心理的事象を「場所の喪失」と表現した。環境と人心の相互関係を素直に見据えた眼差しである。同学の先達イーフ・トゥアンは場所への愛着をトポフィリアと呼び、環境の場所性を重視した。場所性は普遍性の対極にある特殊性を尊重する概念でもある。住み慣れた環境の滅失は故郷喪失にも通じる事態であり、場所の固有性を重んじた都市は原形への回帰、そして継承を選択した。

  都市は人間が住み、生きる場所であり、人間の生活形態に即して形成されてきた。生活形態とは、有態に言えば行動や行為に加えて生理や心理をも含む、その都市を人生の舞台とする人々の価値観に根ざした生き様そのものに他ならない。その総体を景観と呼び、人心との関わりを含めて風景と仕分けるとすれば、都市改造も災害からの復興も、究極には風景の様相を左右する行為に他ならない。

  都市の新陳代謝は一様ではない。場所の姿を変容させ、見慣れた風景を塗り替えて記憶を遮蔽する。あるいは過去が見え隠れし、記憶の在処を問い質す時もある。人々の心身と結びついた場所の回復は、災害からの復興でも都市改造でも今や看過し得ない視座である。

都市空間の立体化を駅前広場でも実現した新宿駅西口。
その後の全国各地の駅前再開発に多かれ少なかれ影響を及ぼした。

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  昭和日本の都市改造は鉄道駅の周辺から着手された所が多い。人と車が錯綜し都市機能の麻痺症状が日常化した場所に白羽の矢が立てられ、ロータリーと通称される交通広場を駅舎と相対して設け周辺地区を整える都市改造の現場となった。幾何学的な景観を目指したバロック的都市計画が波及した19世紀の欧州では、駅舎という新時代の建築物とその前面の空間を、都市の中にどう収めるかが課題となったが、先に蓄積された空間の文法に従って整然と造形された。その模範解答を規範とした明治以降の日本では、東京駅を筆頭に鉄道駅を中心とする区域を都市改造の拠点と見做す意識が植え付けられたようだが、昭和の造作は事情が異なるものとなった。

  郊外の住宅地へ延びる電車の都心側の起終点となる駅に百貨店や複合商業ビルを組み合わせることは昭和初期から行われ、上昇志向を抱く地域の開発モデルとなった。高度経済成長期にはターミナル型デパートを中心とする再開発が都市改造の常道と考えられ、誘致合戦が繰り広げられた。近代の百貨店は19世紀末のパリにアリスティド・ブシコーが開業したボン・マルシェが起源と言われる。産業革命の産物を披露する博覧会の展示手法から発展させた商品陳列と共に、消費者を主役と見立てた劇場の如き内部空間を持つ商業建築を特徴とする。人々が歩き見て楽しむという空間構成に着眼する点は、今日の巨大ショッピングモールにも通底し、昭和末期に脚光を浴び始めたウォーターフロントの再生でも要点の一つに数えられる。その現場となった臨港地区は、普通の市街地とは画然と景観が異なる工場や流通施設が居並ぶ、市民の日常とは直接の縁がない土地だった。それを人々が訪れるに値する場所に変換するために様々な思念が投入され、画一化を免れ得なかった機能主義の呪縛からの脱却が試みられた。曰く文脈主義等々、価値観の多様化という標語を後ろ盾として現実と組み合う拠所が模索された。都市改造はわずか四半世紀で一筋縄ではいかない設問となったのである。


  時間の次元も看過できない。昭和に立てられた計画が方向転換を迫られる状況も目立つ。郊外へ展開した大型店舗に客足を奪われた中心市街地では、既成の改造自体が空洞化に直面した所も現れている。人心を読込んだ硬軟の合わせ技が必要であることは明白であろう。

  アメリカ各地のウォーターフロント地区を見事に甦らせて都市の魔術師の異名を与えられた都市プロデューサー、ジェームス・ウィルソン・ラウスは、1988年に来日して行った講演の中でシェークスピアの作品「コリオレーナス」にある台詞を引用し、こう語った。「人々こそ都市である」

  「人々が微笑みを浮かべて佇んでいる姿があれば、まちづくりは成功なのだ」と語っていた老紳士の姿を思い出す。この度の震災被害の惨状とその行末を思うと、街に住む人々にどのような人生の舞台を蘇生させていくか、環境の再構築を担う建築と土木の真の連携の姿が問われていることは疑いなく、全霊を傾けて英知を結集すべき時であると確信する。

 
   
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