ACe建設業界
2011年7月号 【ACe建設業界】
ACe建設業界
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目次
ACe2011年7月号>BCS賞受賞作品探訪記
 

[BCS賞受賞作品探訪記]

神戸ポートタワー
第六回受賞作品(1965年)

 
 
 

「鉄塔の美女」と称される一葉双曲面の美しい外形をもつ神戸ポートタワー。
戦災から完全に復興した神戸港のシンボルとなる展望タワーをつくることを目標に建てられた。
阪神・淡路大震災で無事だったタワーは、「復興」と「ものづくり」のシンボルとして人々の心に刻まれた。



類例のない優美な塔をつくる

屋上のネオンサイン「PORT OF KOBE」はオープン当初から夜空に輝いている。タワーは昨年よりLEDによってライトアップされている。

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 神戸ポートタワーは、開港90年を記念して神戸港中突堤に計画され、昭和38(1963)年に完成した世界で初めてのつづみ型鉄骨パイプ構造の展望台である。その独特な構造・形状から「鉄塔の美女」とも称され、隣接する白色で帆船の帆をイメージさせる神戸海洋博物館とともに、神戸のシンボルとして広く知られている。

 その計画は、戦災で壊滅状態にあった神戸市街がようやく活気を取り戻してきた昭和36年に始まった。当時の神戸港は、すでに大きな貨物船が数多く就航する我が国有数の貿易拠点であった。また四国や淡路島を結ぶ定期航路や国内外の大型客船も就航するターミナルとして、大勢の人で賑わいを見せていた。そのような神戸港の姿を広く知ってもらい、さらなる神戸港の発展に繋げるために、タワーは計画された。当時神戸港振興協会会長で神戸市長であった原口忠次郎氏は「神戸市民のシンボルとなり、また斬新なデザインで世界的な価値があり、しかも美しい神戸の街にマッチしたもの」という高い理想を掲げた。その言葉を受け、世界中の鉄塔を参考にしてさまざまなデザインが検討された。その結果世界に類例のない優美な二次曲線断面をもつ鋼管構造のつづみ型のデザインが生まれた。



工事概要

所在地:神戸市生田区波止場町八番地
建築主:社団法人神戸港振興協会
設計:日建設計工務株式会社
    (現・株式会社日建設計)
施工:株式会社大林組
工期:昭和37年8月~昭和38年11月

階数:地上3階 展望階5階
構造:鉄骨造、鉄筋コンクリート造
建築面積:400m2
延床面積:1,487m2
規模:軒高99.1m 最高103m
(現在は壁電針を取り換えたため、108m)


高さ103mの鋼管タワー

 神戸ポートタワーの高さは避雷針の上端で103mであった。タワー本体は、つづみ型の外筒と、円柱型の内筒の二層構成となっており、外筒と内筒は水平ブレースにより連結されている。「鉄塔の美女」と称される外筒の基本形状は、上底の直径が15メートル、下底の直径が25メートルの円錐台である。この円錐台の上下の各底面をそれぞれ16等分し、上下の同一点を糸でつなぎ、135度ねじる。その外法線が、優美な二次曲線・一葉双曲面を形成するのである。外筒内部には、展望室や食堂などが入る上層部(五層)と、切符売場や売店等が入る下層部(三層)があり、それらを二基のエレベータと階段が入った内筒が結んでいる。

 建物の色彩は当初全てシルバー色で計画されていたが、航空法の関係もあり、外筒はより認識されやすい赤一色、外筒以外は白色となった。このことがより外筒を引き立てることになった。さらに上層展望階のサッシュが外筒の内側鋼管に沿って取付けられるなど、美しい外形が強調されるようにきめ細かい設計がなされている。

数々の実験・検証を重ねて得られた安全性

現在の神戸港の様子。神戸ポートタワーの周辺は、震災復興と神戸観光の拠点として発展し続けている。

 しかしこのような特殊構造の建築物が簡単にできた訳ではない。当時他に実例がなく、また正確な計算基準がなかったため、数多くの強度実験・理論的解析を繰り返し行う必要があった。そのために極めて精巧な模型が複数つくられ実験が行われた。一つは各種の荷重時と破壊性状をみる構造力学解析用として。もう一つは周期や振幅をみる地震及び振動の解析用として。またもう一つは風力係数の測定用として用いられた。

 これら精密な模型実験から得られたデータは、後に実物で測定したものとほぼ変わらない正確な数値であったという。このようにタワーの安全性は、実現する前段階での気の遠くなるような実験・検証の上に成立している。

狭い敷地と軟弱地盤が阻む難工事との格闘

 工事の現場でも難局があったという。基礎工事で掘削を進めていたときのことである。その地下から、かつて港湾を築造した時の裏込石が大量に出てきたのである。土留めと止水のために打ち込んだシートパイルが損傷を受け、水が溢れ出てきた。しかも、現場の脇に絶え間なく接岸する客船のスクリューの振動や台風シーズンとも重なり、押し寄せる水は工事期間、深刻な影を落とした。しかし現場は、湧き水の水位が潮の干満と連動していることに目を付け、排水路を設けるとともに、わずかな干潮時を見計らって止水工事を行い、水との戦いに打ち勝ったのであった。

神戸港と共に発展し続ける神戸ポートタワー

 このように人々の熱い思いで建てられた神戸ポートタワーも、オープンして50年近い月日が流れようとしている。この間に、神戸港も神戸の街も大きく変わった。中突堤とメリケン波止場の間の海面が埋め立てられメリケンパークとなった。また神戸の街には高い建物が数多く建てられた。しかし真っ赤なタワーは、神戸のランドマークとしてさらに輝きを増しているようにみえる。平成七年一月、神戸を阪神・淡路大震災が襲った。岸壁は崩れ、路面は波打ち、周囲のビルも大きな損害を受けたが、タワーはほとんど損傷を受けることがなかった。このことは建設当時の高い技術力と建設に関わる人々の「ものづくり」に対する熱き思いを証明するものであった。昨年、全面的に塗装を塗り直しリニューアルオープンした神戸ポートタワー。これからも神戸のシンボルとして、愛されながら永遠に人々の心に刻まれていく。

建築主より

観光拠点へと発展する神戸港のシンボルとして

一般社団法人神戸港振興協会 振興部長
森田 潔(Kiyoshi Morita)

 神戸ポートタワーが完成した頃、私は小学生でした。オープンしてすぐに父親に連れて行ってもらったのを覚えています。神戸ポートタワーは新聞でも数多く取り上げられ、また神戸っ子の新しもの好きが加わってか、とにかく大混雑していました。行列は元町商店街まで続いていたと思います。もちろん高い建物に上ったのは初めてでしたので、眼下に広がる神戸港や神戸の街並みが飛び込んできた時は大変に興奮しました。その時はまさか後に神戸ポートタワーを運営する仕事に就くとは思ってもみませんでしたが、その鮮烈な記憶が今の私の仕事を支えていると思います。その後もタワーの人気は続き、オープン1年で入場者数一〇〇万人達成。現在でも年間約40万人の人が訪れています。

 私が現在の仕事についたのは昭和53年です。タワーがオープンしてから50年ほどが経ち、中突堤の中心的機能は定期航路のターミナルから神戸の観光拠点へと大きく変化を遂げました。昭和62年の神戸港開港120周年時には、中突堤の東側を埋め立ててメリケンパークが造成され、神戸の新たな観光拠点として開発が本格化しました。神戸ポートタワーも昨年リニュアールオープンし、神戸港にとどまらず神戸のまちづくりの象徴として活躍しています。現在も年間を通してさまざまなイベントを催しておりますので、是非足を運んで頂けたらと思います。


設計者より

初期のイメージがそのまま実現した記憶に残る作品

元 株式会社日建設計
廣瀬二郎(Jiro Hirose)

 私が設計を担当したのは30代初めの頃でした。当時はすでにエッフェル塔や東京タワー等国内外に美しい鉄塔がいくつもあり、また原口市長から「品格があり、デザイン的に優れたもので、シンボルとなるもの」という依頼をうけて、大変なプレッシャーでした。

 神戸ポートタワーは、東京タワーのような電波塔に展望台が付属する形式ではなく、独立した展望塔なので、なんとか凹凸のないシンプルで一体感のあるデザインができないかと何度もスケッチを繰り返しました。その中には「つづみ型」のようなものがあったものの望ましい外郭線を決められず、一週間位が経った頃、数学的にきれいなかたちである一葉双曲面をふっと思いついたのです。そういえば中学2年生の時、円筒形をキュッとねじってできる一葉双曲面を描いて数学の先生に誉められたなと。円筒形の上下の円の大きさを変えてつくれば機能的にも、プロポーション的にも合理性があるのではないかと思ったのです。

 直ちに図面化し模型を作成して、当時鋼管構造研究の第一人者であった構造設計部の多田英之氏に相談した時にも、「これはいけるで!」と力強く言って頂きました。社内の合意形成もスムーズに行われ、初期のイメージをそのまま実現することができました。このような事は滅多になく、大変幸せに思っております。協力頂いた全ての方に心から感謝を申し上げます。


施工者より

時を経ても変わらない「ものづくり」への熱き思い

元 株式会社大林組
金沢了造(Ryozo Kanazawa)

 この現場を担当したのは、入社して7年目でまだ若かった頃でした。当時はどこのゼネコンが早く超高層を建てるかといった競争をしている時期で、建設業界は技術力を競って大変に活気がありました。施工方法も大きく変わりました。足場は丸太足場からパイプ足場へ。鉄骨の接合方法も、リベットからハイテンションボルトへと移行していきました。このような技術革新の狭間のなか、現場では試行錯誤の末、新旧様々な工法を採用しました。例えば、コンクリートの打設は現場練りから生コンに移行しつつありましたが、作業効率と人件費の問題から現場にバッチャープラントをつくり、現場練りと生コンを併用しました。

 工事では、全ての部分において非常に高い施工精度が求められました。そのためジョイント部分はすべてメタルタッチで、ハイテンションボルトの締め付けも全て手で行う大変な作業でした。しかし短い一生のなかで滅多に手掛けることができない特殊な構造物であり、世界でも類をみない「つづみ型」の塔を建設しているという喜びと誇りをもって全員が懸命に取り組みました。阪神・淡路大震災の時、タワーが無事で大変感激しました。技術者にとって自分が手がけた物が「残る」ということは最大の喜びです。今後も神戸ポートタワーが「ものづくり」のシンボルとして引き継がれていくことを願っています。

 
   
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