ACe建設業界
2012年11月号 【ACe建設業界】
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[碑文]

関門隧道建設の碑

 
   
 

【表】 向かって左

1939



【表】 中央


関門隧道建設の碑
建設大臣 根本龍太郎

 関門海峡早鞆の瀬戸はその幅僅か七〇〇メ
―トルに過ぎないが瀬戸内海の咽喉部に位置
するため潮の流れが速く本州と九州との隔た
りを一層遠いものにしていた
これを海底隧道によって直接結ぶことは国
民の久しく念願していたところであって自動
車交通の発達に伴い道路隧道の速かなる開通
が望まれること切なるものがあった
昭和の初年国道をもってこれを結ぶことが
企図され昭和十四年先ず試掘隧道を完成し引
き続いて同年から十箇年継続事業として本隧
道に着工した
たまたま第二次世界大戦に際会し工事は困
難を極めたが昭和十九年十二月全線の導坑を
貫通した
しかるに同二十年六七月相つぐ戦災を蒙り
工事は一時休止するのやむなきに至り工事再
開の目途の立たないまま六年間の維持工事を
行うに止まった
昭和二十七年に至って道路整備特別措置法
による有料道路として工事を再開し同三十三
年三月九日開通の運びとなったものである
着工以来実に二十有一年我が国土木技術の
粋と人の和によって築かれた画期的大事業で
あってその間建設に従事した者四百五十万人
職に殉じた者五十三人総工事費五十七億円の
多きに達している
 かくてここに国民の久しい間の夢が実現し
たのであるがこの隧道の開通によりさきに完
成した鉄道隧道と相まって本州と九州との結
びつきが一層緊密となり日本民族の繁栄に寄
与するところ極めて大なるものがあると信ず
るここに関門隧道の竣功にあたり建設の碑を
建てる
       昭和三十三年三月




【表】向かって右


1958




【裏】


工費
  57億円(昭和33年3月現在換算額80億円)
歴代工事々務所長
  加藤伴平  昭和14年5月  昭和20年5月
  富樫凱一  昭和20年5月  昭和21年7月
  中尾光信  昭和21年7月  昭和31年4月
  上土 実  昭和31年4月  昭和33年2月
  住友 彰  昭和33年3月
隧道部施工
  海底部   直営
  陸上部   直営  熊谷組 間組 大成建設 西松建設

 

工事概要
  トンネル
   延長          3461.4米
     下関陸上部   1370.4米
     海 底 部     780.0米
     門司陸上部   1311.0米
     試掘トンネル   1008.0米
   位置
    1級国道2号線
   下関市椋野より門司市堀川に至る
   構造
     海 底 部  円形
      車道幅員7.5米 高4.53米
      車道の設計荷重  18頓
      人道幅員3.85米  高2.54米
     陸上部  仰拱形
      車道については海底部に同じ
     立坑
      下関 矩形25米×18米 深55.4米
      門司 矩形25米×18米 深64.4米
      椋野 外径15.8米   深67.7米
      古城 外径19.2米   深75.7米
     換気
      上方横流式
      送排気用ファン24台







 
寝太郎之像 JR厚狭駅前 在来線側
下関側の関門トンネル人道入口ビル 関門隧道建設の碑







 
 

[碑文]

加藤伴平氏の碑

 



  【正面】 


加藤伴平 
1896―1982





  【正面向かって右側面】


  人の才を集めて成りし水底の
    道にこの世はいやさかゆかむ
   この和歌は今上陛下の御製であります
 関門国道トンネルが昭和三十三年三月九日開通してからひと月後
四月七日に
陛下は皇后様とご一緒にこのトンネルの人道を歩かれたのち 椋野から
門司へ抜けられました そのときお詠みになったものと承っております
 加藤伴平さんは いつも常々この御製を拝誦されておりました
 昭和の初期には 早鞆の瀬戸にトンネルは出来ないといわれており
ましたが 世界的な視野から研究されて出来ぬことはないと決断され
決行されたのが関門国道建設事務所の初代所長加藤伴平さんであります
 伴平さんは 昭和五十七年十月 八十六歳で東京都葛飾区で永眠され
ましたが 本当に永眠されているところはこの水底ではないでしょうか
  昭和五十九年三月吉日
               関門国道トンネル従業者一同
                       富樫凱一撰文




寝太郎之像 JR厚狭駅前 在来線側
加藤伴平氏の碑 加藤伴平氏の肖像レリーフ








 
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